森を見て木を見ず
先週夫が突然帰って来てしばらく休養し、ついでに畑を耕してくれました。
まだ肩から腕にかけて痛みの残っている私は内心で思わずラッキー!と叫びましたが、これでまた耕運機操作の習得の機会を逃してしまいました。
まぁ、また冬野菜を植えるときにチャンスが巡ってくるので、今年中には何とか習得しましょう。
周囲の畑も田んぼもすべてきれいに耕されて、あとは植えるのを待つだけです。
ここのところ寒い日が多く霜注意報も出るので、植え付けはいつもより少し遅くなるかも知れません。
その間に土を整えますが、今年は薪ストーブの灰を畑に撒かないようにとの通達が出ました。
うちの薪は福島産じゃないんですけど…。昨年夏ごろの栃木産、う~んやっぱりだめか…。
灰はいろいろと利用価値があるんですけどね。ま、今年は雪の下でじっくりと熟成された堆肥と米ぬかを使って野菜作りをすることにしましょう。
家の裏の畑
畑を一通り見まわった後に奥に続いている林に入ってみました。
もうカタクリの花は終わりに近く、小さな緑の実を付けています。
傍らには綿毛に覆われたゼンマイが顔を出しています。よく目を凝らすとそこかしこににょきにょきという感じで生えてきています。
去年は全く気がつかなかったのに、今年はゼンマイの豊作かしら。
右手の方に進むと落ち葉を突き破るようにして、イタドリやトリアシが伸びてきています。
ゼンマイ トリアシ

林の中を歩きながら、子供の頃祖母に連れられ山菜取りをしたことを思い起こしました。
祖母はとても植物が好きな人だった。家の周りは四季を通して花で溢れていたっけ。
山に行く時はいつもお弁当持参で、1日がかりで祖母は私に草木の一つ一つを説明してくれました。
例えば「鶏の足をさかさまにしたような形だからトリアシと言うんだよ。」というふうに。(正確にはトリアシショウマですが。)
最晩年、寝たきりになって95歳でこの世を去った祖母はベッドの上で懐かしむように大沢(私が生まれ育った場所)の山々のことを語っていました。
夫は私と出会って初めて山に行った時に、私がいろいろと植物のことを知っているのに感心していましたが、これもひとえに祖母の教育のお蔭です。
林の中はシーンとして、時々鳥の飛び立つ音が聞こえる程度。
かつてはここは猿たちの遊び場で、大きな栗の木の枝にぶら下がりながらキャッキャッとはしゃいでいる声が家の中にいても聞こえてきました。
もう姿を見なくなって2年になるけど、どこへ行ったというのでしょう。やっぱりいないと淋しいな。
歩いているうちに意識は日常を抜け出して、何か瞑想でもしているような状態になってきました。(動禅というのでしょうか)
よく見ると木々の一つ一つに表情があり、息づいているのが感じ取れます。杉も今まで同じように見えていたけれど、1本1本個性があって全然違っているのに気が付きました。
急に全ての木々、そして下に生えている植物たちが愛おしいという思いがこみあげてきました。
この山はそんなに高くない山だ、我が家の方向の北斜面の木はおそらく1万本に満たないに違いない、その1本1本に名前をつけてこれから何十年生きるかわからないけれど毎日語りかけたい、そんな思いにも駆られました。
「木を見て森を見ず」とはよく言われる言葉ですが、私の場合は森を見てわかったようなつもりになっていて、木の一つ一つまで目を届かせることをしていなかったのです。
「森を見て木を見ず」一見かっこよく響きますが、あるマーケティング・マネージャーのこの一言に私の自負心は見事に打ち砕かれました。
「しかし木を見ることができないのに森を見ることができる人は、私の限られた経験ではお目にかかったことはありません。まずは木をしっかり見ることができることが最初。それを積み重ねることで森が見えてくる、ということなのでしょうね。」
結局私は何も見ていなかった、ただぼんやりと眺めていただけだったということです。
それはこれまでの私の生きる姿勢そのものだったのです。
また一から始めなければなりません。これがここに移り住んで5年目に私が得た成果です。
裏山は頂上まで15分ぐらい 猿たちが遊んだ栗の木


まだ肩から腕にかけて痛みの残っている私は内心で思わずラッキー!と叫びましたが、これでまた耕運機操作の習得の機会を逃してしまいました。
まぁ、また冬野菜を植えるときにチャンスが巡ってくるので、今年中には何とか習得しましょう。
周囲の畑も田んぼもすべてきれいに耕されて、あとは植えるのを待つだけです。
ここのところ寒い日が多く霜注意報も出るので、植え付けはいつもより少し遅くなるかも知れません。
その間に土を整えますが、今年は薪ストーブの灰を畑に撒かないようにとの通達が出ました。
うちの薪は福島産じゃないんですけど…。昨年夏ごろの栃木産、う~んやっぱりだめか…。
灰はいろいろと利用価値があるんですけどね。ま、今年は雪の下でじっくりと熟成された堆肥と米ぬかを使って野菜作りをすることにしましょう。
家の裏の畑
畑を一通り見まわった後に奥に続いている林に入ってみました。
もうカタクリの花は終わりに近く、小さな緑の実を付けています。
傍らには綿毛に覆われたゼンマイが顔を出しています。よく目を凝らすとそこかしこににょきにょきという感じで生えてきています。
去年は全く気がつかなかったのに、今年はゼンマイの豊作かしら。
右手の方に進むと落ち葉を突き破るようにして、イタドリやトリアシが伸びてきています。
ゼンマイ トリアシ
林の中を歩きながら、子供の頃祖母に連れられ山菜取りをしたことを思い起こしました。
祖母はとても植物が好きな人だった。家の周りは四季を通して花で溢れていたっけ。
山に行く時はいつもお弁当持参で、1日がかりで祖母は私に草木の一つ一つを説明してくれました。
例えば「鶏の足をさかさまにしたような形だからトリアシと言うんだよ。」というふうに。(正確にはトリアシショウマですが。)
最晩年、寝たきりになって95歳でこの世を去った祖母はベッドの上で懐かしむように大沢(私が生まれ育った場所)の山々のことを語っていました。
夫は私と出会って初めて山に行った時に、私がいろいろと植物のことを知っているのに感心していましたが、これもひとえに祖母の教育のお蔭です。
林の中はシーンとして、時々鳥の飛び立つ音が聞こえる程度。
かつてはここは猿たちの遊び場で、大きな栗の木の枝にぶら下がりながらキャッキャッとはしゃいでいる声が家の中にいても聞こえてきました。
もう姿を見なくなって2年になるけど、どこへ行ったというのでしょう。やっぱりいないと淋しいな。
歩いているうちに意識は日常を抜け出して、何か瞑想でもしているような状態になってきました。(動禅というのでしょうか)
よく見ると木々の一つ一つに表情があり、息づいているのが感じ取れます。杉も今まで同じように見えていたけれど、1本1本個性があって全然違っているのに気が付きました。
急に全ての木々、そして下に生えている植物たちが愛おしいという思いがこみあげてきました。
この山はそんなに高くない山だ、我が家の方向の北斜面の木はおそらく1万本に満たないに違いない、その1本1本に名前をつけてこれから何十年生きるかわからないけれど毎日語りかけたい、そんな思いにも駆られました。
「木を見て森を見ず」とはよく言われる言葉ですが、私の場合は森を見てわかったようなつもりになっていて、木の一つ一つまで目を届かせることをしていなかったのです。
「森を見て木を見ず」一見かっこよく響きますが、あるマーケティング・マネージャーのこの一言に私の自負心は見事に打ち砕かれました。
「しかし木を見ることができないのに森を見ることができる人は、私の限られた経験ではお目にかかったことはありません。まずは木をしっかり見ることができることが最初。それを積み重ねることで森が見えてくる、ということなのでしょうね。」
結局私は何も見ていなかった、ただぼんやりと眺めていただけだったということです。
それはこれまでの私の生きる姿勢そのものだったのです。
また一から始めなければなりません。これがここに移り住んで5年目に私が得た成果です。
裏山は頂上まで15分ぐらい 猿たちが遊んだ栗の木


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